アウトプットとインプット


平安時代の人間と現在の人間を比べて知能指数や脳の容量が大きくちがうとは思えない。(詳細はこの手の専門の科学者や文化人類学者の見解にゆずる)

「情報化時代」などと呼ばれて久しいが、自らを例外とすることなく批判すれば、単に「手に入れやすい情報」に接する機会が多くなったという感じがする。

「情報の大切さ」でなく、情報の手触りや入手の簡便さや楽しさが最優先される時代だ、といい切っても過言と言えまい。

インプット=情報の入手と捉えれば現在のインプットの簡便さや伝達量は大変なものであろう。電車の乗客を眺めてみればほぼ100%の人が携帯電話で情報のやり取りをしている。家に帰ればタブレットを片手にテレビを見ている人も多いのではないか。

しかし、気をつけなければならないのはその情報は「どういう質のものなのか」を吟味することであろう。無骨な手触りの、場合によっては小さな字でぎっしり印刷された紙の上の文字が情報としては大切である場合も多い。あるいは研究者やその道を究めるべく活動している人物の生の声や会話の「飾りない言葉」が重みを帯びている場合がある。

翻って、簡便な入手が可能な、楽しいデコレーションで提示される多くのテレビ番組やウェブサイトの情報はどうなのだろう。言葉尻を捉える匿名の誹謗中傷合戦で一喜一憂したり、耳障りのいい軽やかで楽しい会話には何の目新しい情報や目的も無かったりしないだろうか。これらも「情報」といえば情報である。では我々はそれらを用いて何をアウトプットしようとしているのか。

人がプリミティブな生活をしようとするときに、多くのアウトプット(ここでは、情報の送り出しのみを指さない。火を起すことや野菜を栽培することなどを広義に含むものとする。)を行う必要に迫られる。単に1日生活することが大変な作業に追われていたであろうことは想像に容易い。

例えば平安の時代に、現在のような大量の情報の伝達手段はない。と同時に多くのアウトプットを行う必要に迫られていた。そのような暮らしを眺めて、現代の暮らしで計って「我々の方が頭がいい」などとはとても言えまい。

現代は、究極的に考えれば、お金さえあれば、あるいは親の援助があれば、部屋から一歩も出なくとも、大量の情報を入手し、大量に何かを消費(買い物=モノに限らず、情報やコンテンツを購入/消費することも出来る)することも出来る。しかし、そのような生活に何のアウトプットが存在するのか。

大量の情報に触れることが「人類の進化」のように勘違いしている人を見かけるが、多くの場合、それは単に情報を「消費」しているにすぎない。情報をインプットすることに多くの時間を割きすぎて、あるいはつまらない情報に反応(リアクション)することに追われて、それをアウトプットと勘違いしている人が多いのではないか。

インプットは、誤解を恐れずに言えば良質なアウトプットを生み出すために必要なものでは無いだろうか。例えて言えば、学校で勉強するのは漠然とした「学歴」を得るためでなく「将来の問題を解決するためのアウトプット」を導きだすためにすることではなかろうか?

 

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