名古屋市立大学 栗原映像研究室ブログ

ビジュアライゼーション

脚本は(一応)出来た。出演者もほぼ決まった。撮影場所も決まった。小道具や衣装もほぼ決まった。機材もほぼ確保した。本読みだってまあやった。演出の方向性だっておおよそ決めている。天候も悪くなさそうだ。では準備万端なのか? それは違う。撮影計画がまだ完成していない。画コンテやビジュアライゼーション、英語で言うとStory boardか。悩んで悩んで悩み続ける。過去の名画も見る。現在の映画も見る。文献にもあたる。でもまだまだ。これらからが本当の勝負だ。そして同時に芳醇な時間だ。

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本読み カメラテスト リハーサル など

映画の準備が始まりました。27-28の二日間にわたり本読み、カメラテスト、リハーサルなどを行いました。協力、参加頂きました皆様ありがとうございました。神戸から参加の大濱絵梨香さん、奈良から参加の大島夏乃さん、東京から参加の白石さえさんほか、あおきりみかんさん、大夢のみなさま、また市工芸の演劇部のみなさん、熱演お疲れさまでした。本番にむけて体調管理よろしくお願いいたします。撮影は8/12-25日を予定しております。

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高大連携プロジェクト

昨日は工芸高校のみなさんと桜台高校の皆さんと芸術工学部との合同の授業(夏休み中の自由参加の授業)を行いました。工芸高校のグラフィックアーツの皆さんは撮影を、桜台のみなさんはオリジナルの服を来て自らがモデルとなり被写体となりました。多くの生徒さんは3年生で高校時代の最後の夏休みの大きな想い出になったのではないでしょうか。撮影された作品は写真集等の作品になる予定だそうです。

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アウトプットとインプット

平安時代の人間と現在の人間を比べて知能指数や脳の容量が大きくちがうとは思えない。(詳細はこの手の専門の科学者や文化人類学者の見解にゆずる)

「情報化時代」などと呼ばれて久しいが、自らを例外とすることなく批判すれば、単に「手に入れやすい情報」に接する機会が多くなったという感じがする。

「情報の大切さ」でなく、情報の手触りや入手の簡便さや楽しさが最優先される時代だ、といい切っても過言と言えまい。

インプット=情報の入手と捉えれば現在のインプットの簡便さや伝達量は大変なものであろう。電車の乗客を眺めてみればほぼ100%の人が携帯電話で情報のやり取りをしている。家に帰ればタブレットを片手にテレビを見ている人も多いのではないか。

しかし、気をつけなければならないのはその情報は「どういう質のものなのか」を吟味することであろう。無骨な手触りの、場合によっては小さな字でぎっしり印刷された紙の上の文字が情報としては大切である場合も多い。あるいは研究者やその道を究めるべく活動している人物の生の声や会話の「飾りない言葉」が重みを帯びている場合がある。

翻って、簡便な入手が可能な、楽しいデコレーションで提示される多くのテレビ番組やウェブサイトの情報はどうなのだろう。言葉尻を捉える匿名の誹謗中傷合戦で一喜一憂したり、耳障りのいい軽やかで楽しい会話には何の目新しい情報や目的も無かったりしないだろうか。これらも「情報」といえば情報である。では我々はそれらを用いて何をアウトプットしようとしているのか。

人がプリミティブな生活をしようとするときに、多くのアウトプット(ここでは、情報の送り出しのみを指さない。火を起すことや野菜を栽培することなどを広義に含むものとする。)を行う必要に迫られる。単に1日生活することが大変な作業に追われていたであろうことは想像に容易い。

例えば平安の時代に、現在のような大量の情報の伝達手段はない。と同時に多くのアウトプットを行う必要に迫られていた。そのような暮らしを眺めて、現代の暮らしで計って「我々の方が頭がいい」などとはとても言えまい。

現代は、究極的に考えれば、お金さえあれば、あるいは親の援助があれば、部屋から一歩も出なくとも、大量の情報を入手し、大量に何かを消費(買い物=モノに限らず、情報やコンテンツを購入/消費することも出来る)することも出来る。しかし、そのような生活に何のアウトプットが存在するのか。

大量の情報に触れることが「人類の進化」のように勘違いしている人を見かけるが、多くの場合、それは単に情報を「消費」しているにすぎない。情報をインプットすることに多くの時間を割きすぎて、あるいはつまらない情報に反応(リアクション)することに追われて、それをアウトプットと勘違いしている人が多いのではないか。

インプットは、誤解を恐れずに言えば良質なアウトプットを生み出すために必要なものでは無いだろうか。例えて言えば、学校で勉強するのは漠然とした「学歴」を得るためでなく「将来の問題を解決するためのアウトプット」を導きだすためにすることではなかろうか?

 

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しのぶとのぞみ

夏季研究室映画の主役のお二人、「しのぶとのぞみ」です。とっても可愛い男の子ですね。撮影は毎日猛暑が予想されるので体調に気をつけて臨みましょう!!!

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「女の子ごっこ」ロゴ入りポロシャツ

見出しの件のサンプルが出来上がりました。前回よりだいぶ良くなったような感じです。メガネの細かい刺繍など、忠実にデザイン原案を再現してくれた職人技に感激です。ターコイズブルーの鮮やかなシャツにピンクのマークはやや女性的でしょうか?いや、この言葉は今回の映画ばかりは簡単には使えない言葉なのでした。

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江戸時代は古い文明なのか?あるいはもうひとつの日本の姿なのか? (私たちが選んだものとは何か)

誤解を恐れずに言えば世界には二つのタイプの国や民族の文明がある。一方は文明や機械化や貨幣経済を極端におしすすめる国(多数派であり、日本を含むもの)、もう一方は、機械どころか貨幣経済も取り入れない民族(アフリカ大陸の一部などに存在する超少数派、しかし、これらの民族は今も地球上に存在している)。

現代において、これらの民族(人々)は文明や貨幣を知らない訳でもないし知能指数が低いわけでもない。では、彼らはなぜ21世紀にこのような選択をしているのか、逆になぜわれわれは現在の文明社会(と便宜上われわれが自身を呼ぶもの)の選択をしてきたのか? その違いは何なのか?

日本を例にあげると、わずか150-60年前まで鎖国のようなことをして、すべての食料やエネルギーその他を国内だけで生産、消費してきた。(一部の出島等のわずかな輸出入を無視して言えば) つまりわたしたち日本人は本来、この島国のなかだけで何千年と、いや何万年と自給自足して暮らしてきたのだ。(もちろん、史上に大飢饉などがあったことは今回の本来の論点ではないので言及しない)

それが、すこし前に我々はいわゆる「列強」に比するほどに文明化(あるいは欧化などといわれる)を選択して来たのだ。(黒船の来航や開国の圧力があったことも確かではある。占領されても欧化しない、という選択はあったか、どうか…。)

文明や機械化や情報化社会を非難するつもりはない。しかし、忘れてならないのは、それらは自動的に「そうなった」のでなく、我々が「選択」したということだ。

選択しないということが、この世の中にあり得るのか、と言われれば、冒頭の通りである。見出しも件に戻れば、江戸時代という未開の時代があって、自動的に進化して(?)現在に至る、ということではないというものだ。我々は江戸時代を自らの決断で「やめて」(そこにはもちろん歴史的な必然性はあったろうが。) 今の社会形態や文明社会を「選んで来た」のである。

我々の近代化された社会では、時折、原子力発電の事故や高層ビルが崩れて大惨事を起こす。それらの現象だけに捕われがちだが、それらの導入を選択し、あるいは許可し、恩恵を受け、それを押しすすめる政党や政治家を選んだ(選挙権を行使しないという選択も含めて)のも、すなわち私たち自身(あるいは私たちの社会)なのである。

 

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