おおらかであること


 おおらかでありたいと思う。かくいう私もそうでもないときが良くある。ぎりぎりのタイミングで電車を逃したときになんだか残念に思うし、クルマが故障すればうっとおしい。入ったレストランがおいしくなければ、なんだ…と残念に思う。もちろん、旅客機の整備がいい加減で墜落したらそれはとっても困る。
 しかし、昨今の日本を見ていると権利意識が強すぎて、その上、情報発信が手軽すぎて一億総評論家になっているがごとく視える。(もちろんそのことの功罪は別の議論としてあるが)
 消費者が完璧なサービスや製品を求めるということは、そして、みんなが「必要以上に行使する権利意識」や「辛口の評論」をすべての物やサービスに加えるとき、自分がそれらを提供する側に立ったときに大変な義務が生じるということを考えているのだろうか。
 普通の人間は多くの時間を仕事に裂いている。前述のような風潮の中ではサービスを提供する側に多くの時間いることになる。それがトータルでみて「よい生活や社会の在り方」なのだろうか?
 もちろん、良いサービスや製品を提供することは必要である。しかし、昨今問題になっている「客が怒り狂うと土下座しなくてはならない」とか「おいしいと評判のラーメンの味」がいつもとほんのすこし違うと写真を撮られてネットに晒され、これでもかというくらいに批判されるような風潮はいかがなものか。
 外国に行くと、特にアジア諸国や南ヨーロッパ、南アメリカなどにいくとおおらかな人や文化に触れることが多い。
 約束したって時間通りに来る奴ばっかりではない。電車の時間だって1分出発や到着が遅れたって文句言う客もいない。
 いつかバルセロナのバルにレストランに行ったときににこやかに「食ってみろ」といって自慢の自家製生ハムをそいでくれたご主人の笑顔、タクシーに乗ったらメーターが壊れていて「客であるあんたが値段を決めていい」といった出稼ぎのアフリカ系の運転手の笑顔。視るべき「人間の営みとふれ合い」が其所にある。
 「完璧な味のラーメンを提供されること」「1分でも会議に遅刻しないこと」「忙しい安居酒屋で極上のサービスを提供されること」の向こうに何があるのだろうか? 細い道から合流しようというクルマに道を譲ったら、横断歩道を渡ろうとしている歩行者のために一時停止したら、何か損するのだろうか?
 現代の日本人は「行き過ぎた権利意識」あるいは「見せかけの合理主義(実は能率主義)」の向こう側に何を得ようとしているのだろうか?

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