江戸時代は古い文明なのか?あるいはもうひとつの日本の姿なのか? (私たちが選んだものとは何か)

誤解を恐れずに言えば世界には二つのタイプの国や民族の文明がある。一方は文明や機械化や貨幣経済を極端におしすすめる国(多数派であり、日本を含むもの)、もう一方は、機械どころか貨幣経済も取り入れない民族(アフリカ大陸の一部などに存在する超少数派、しかし、これらの民族は今も地球上に存在している)。

現代において、これらの民族(人々)は文明や貨幣を知らない訳でもないし知能指数が低いわけでもない。では、彼らはなぜ21世紀にこのような選択をしているのか、逆になぜわれわれは現在の文明社会(と便宜上われわれが自身を呼ぶもの)の選択をしてきたのか? その違いは何なのか?

日本を例にあげると、わずか150-60年前まで鎖国のようなことをして、すべての食料やエネルギーその他を国内だけで生産、消費してきた。(一部の出島等のわずかな輸出入を無視して言えば) つまりわたしたち日本人は本来、この島国のなかだけで何千年と、いや何万年と自給自足して暮らしてきたのだ。(もちろん、史上に大飢饉などがあったことは今回の本来の論点ではないので言及しない)

それが、すこし前に我々はいわゆる「列強」に比するほどに文明化(あるいは欧化などといわれる)を選択して来たのだ。(黒船の来航や開国の圧力があったことも確かではある。占領されても欧化しない、という選択はあったか、どうか…。)

文明や機械化や情報化社会を非難するつもりはない。しかし、忘れてならないのは、それらは自動的に「そうなった」のでなく、我々が「選択」したということだ。

選択しないということが、この世の中にあり得るのか、と言われれば、冒頭の通りである。見出しも件に戻れば、江戸時代という未開の時代があって、自動的に進化して(?)現在に至る、ということではないというものだ。我々は江戸時代を自らの決断で「やめて」(そこにはもちろん歴史的な必然性はあったろうが。) 今の社会形態や文明社会を「選んで来た」のである。

我々の近代化された社会では、時折、原子力発電の事故や高層ビルが崩れて大惨事を起こす。それらの現象だけに捕われがちだが、それらの導入を選択し、あるいは許可し、恩恵を受け、それを押しすすめる政党や政治家を選んだ(選挙権を行使しないという選択も含めて)のも、すなわち私たち自身(あるいは私たちの社会)なのである。

 

This entry was posted in blog. Bookmark the permalink.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です