このところ皆で毎日編集をしている。撮影の際のお祭り騒ぎからするとずいぶんと地味な作業ではある。
私の師の一人は編集についてこう語っている。「映像素材を、自分の敵が撮影したものだと考えて編集しろ、人間は自分にはどうしても甘くなる。」「すべての撮影素材をすべて見て、すべてのそれらを暗記してから編集に取りかかれ。」火の出るような激烈な言葉である。
自身でも編集作業を通じて得た経験がある。自分で撮影した映像素材ではあるが、そこには意外な発見をすることが多い。そしてその発見やインスピレーションに従って編集するのである。もちろん、それらの閃きを内包する映像を手に入れるためには多くの時間を映画を考えることに費やし、あるいは撮影作業に費やし、「偶然」であるところの結果を「必然」と呼べるだけの努力をしてから、ということになるか。
映画を作るというのは、その他多くの仕事と同じく、極めてストイックで地道な作業の積み重ねであると言わざるを得ない。しかし、撮影素材を持っているだけでは「映画」にはならない。いわば彫刻に眼を入れる作業のようなものか。
去年、こちらの映画に出演してくれた若い俳優の一人が「どうしたらもっと演技がうまくなれるか?」と相談してきた。私は「編集を見に来たらどうだい?なぜ出演部分がカットされてしまうことがあるのか。あるいは自分の演技がなぜNGとOKがあったのか、観客はどのようにみるものなのか、が解るかもしれない」と答えた。その俳優さんは約束通り、ある編集作業日に日がな1日傍らで編集作業を見ていた。一見地味な編集作業を飽きもせずに爛々とした眼でずっと見詰めていた。今年、その俳優さんは大躍進しているようだ。