映像コンテンツ特論受講者へ
レポートについて

執筆の際、以下のようなことに留意してみよう!


1.自分のオリジナルの視点や発見が盛り込まれているか?

2.単なる作品の解説や感想になっていないか?
3.読み物として面白い(あるいは興味深い)ものになっているか?(これが一番大切か)

4.自分の専門分野から見た視点が盛り込められるか?
上記を参考にしてがんばってくださいね。

栗原

東京物語 〜壮大なる実験映画〜
東京物語を語るときに必ず出てくる「構図の美しさや三角形の構図」「人物の配置と出入りの巧さ」「演技の付け方の不自然さ」「カメラポジションの独自性」などについては割愛させていただく。これらは既出の他の研究本に譲る。
私が思うこの映画で特筆すべきは「なんにもない映画」であるということだ。具体的には「ナレーションがない」「テロップ(字幕や説明書き)がない」「カメ ラの動きがない」(ほんの一部移動ショットがある)「音楽効果音がほとんどない」「説明的な台詞がほとんどない」などこれらはテクニカルなこと、さらには 物語を見ると「誰も恋に落ちない」「だれも超人的な活躍をしない」「だれも殴り合いのけんかをしたり武器を使ったりしない」「だれも極度に怒り狂ったり泣 きわめいたりしない」「だれも友情を新たに築いたり、誤解を解いたりして感動的に仲良くなったりしない」歴史的に見てこれだけ何にもない映画が成立してい るケースはほとんどないのではないか。では逆にこの映画を支えているものは何なのか?
それは「人間観察」と「社会的メッセージ」であろう。前者においては家族の絆、親子の情、他人への思いやり、人間の時間的な立場や性格の変化、人間の老い や成長による変化や変遷、それらを通じて「生きるとはどういうことか」ということに対する時代や文化を超えての一つの回答がある。
後者においては戦争の残した傷跡や破壊された家族の形、高度経済成長がもたらした社会全体の歪み=例えば農村部の過疎化による疲弊と都市部の膨張や人口集中による職業の多様化や激しい資本主義競争社会の光と影などであろうか。
この映画の表層に流れる雰囲気は老夫婦の醸し出すのんびりとした空気が支配し、東京で右往左往するコミカルなテイストに溢れている。これらによって映画全 体は望郷の念が満ちあふれたような、のどかな調子に覆われている。しかしながら前述のように、そこで語られているものは実はかなり深刻な問題を提示してい るのだ。この二重構造こそが今日の映画にはほとんど見られなくなった「奥行きのある映画の芳醇な味わい」なのだ。
また、登場人物像と人物描写がよく練られている。そこには特別な人物はいない。どこにでも居そうな人物ばかりが登場し、しかも彼らはどこかで聞いたことが あるような台詞をしゃべる。唯一、原節子演じる紀子だけがややヒロイン的には描かれている。しかし、それでもやはりどこかに居そうな女性であることに間違 いはない。
我々は東京物語を見るときに二時間以上にわたって、この何も特別なことがおこらず、どこかにいるような人物たちのどこかで聞いたような台詞の芝居を見続け ることになるのだ。しかしながら、それこそ実は自分の「実人生」を、さながら二時間に纏めあげた記録のようなものを見せられているのである。だからこの映 画を見るときに、このことが他人事だと思えなくなったときに、あるいは自分が映画の中の自分と近しい立場の人物になったかのような気がするとき、我々は深 くため息をついて思わず頷いてしまうのである。

チャップリンの映画 「街の灯」(City Light)
今から80年も前に 作られたこのサイレント作品(音の無い)を超える映画は未だ現れていない。それはチャップリンのユーモアと慈愛と見事な人間観察の集大成だ。酔っぱらいに ついての見事な観察眼、ボクシングの場面の抜群のアイデア、盲目の花売り娘の清楚な笑顔、どれひとつとっても映画史上最高の場面だ。
また、「街の灯」は映画というメディアを最大限に活かした工夫が散りばめられている。それもサイレント映画ならではの限定的な世界での素晴らしい工夫だ。 例えばチャップリン(自身で浮浪者役を主演している)は自らを貴族(富裕層)と信じさせるために目の前の、当時は非常に高価だった(実は他人の)自家用車 に乗り込むふりをする。盲目の少女の前で逆のドアから降りて、彼女と一緒に過ぎ去ってゆく自動車を見送る。そこではドアの開け閉めの音や自動車が走り去る 音までが映像から各自が感じとる想像の世界の音なのだ。その頃にはもちろんトーキーと呼ばれたサウンドムービーが技術的にも成立していたがチャップリンは あえてサイレント映画を選んだのだ。そこには前述のような限定的な世界だからこそ描ける奇跡がある。
我々は映画を見ながら主役の浮浪者とともに盲目の少女の夢を想像し、少女と一緒に白馬の王子を瞼に描き、劇場の観客が一体となってそこに繰り広げられている世界を、カラーの音のある世界を想うのだ。
それはどんな映像よりも鮮やかな色彩に満ち溢れた世界なのだ。何故なら、どんなに素晴らしいCGや3D映像やドルビーサウンドの映画よりも人間が自らの想 像力で作り上げる色彩は鮮やかだからだ。それはまるでパレット上で絵の具を混ぜるより人間の網膜上で色を混ぜたほうが鮮やかな色彩が得られると提唱した スーラの点描画のようではないか!
「立体メガネをかけましょう」とか地上波デジタルだといいながらそれを見せるべき内容が伴っていないのなら何のための技術革新なのか?
そして、チャップリンの映画において何より大切なことは「笑いながら泣ける映画」であることだ。現在でも多くのコメディが作られている。しかし、多くのコ メディが人を笑わせることを目的としている。翻ってチャップリンにとって笑いは手段でしかない。チャップリンが人を笑わせている間に観客は知らず知らに人 間の「残酷」さや「暖かさ」を味わっているのだ。そしてもっと言えばそこに留まらず社会の矛盾についての強烈なメッセージを含んでいるのだ。ロックミュー ジシャンが大音量で叫ぶよりももっと確実でスマートな方法を用いて、チャップリンはいつも社会的弱者を応援し続けていたのだ。
芸術とデザインの境界線
「芸術」という言葉は比較的新しい言葉で、特例を除けば明治以後に輸入されたもので、Art=芸術という風に訳された「誤訳」だ。
似たような例は多く存在し、diet=痩せるという風に最近日本で誤訳されて一般化した。(dietには食事制限という意味しか本来はない)
また、aesthetics=エステなどと誤訳され(商業的な作戦により意識的に)日本語として間違って一般化した例は多い。Aestheticsは美学 的価値をもつ作品、などというように、かなり高尚な場合にのみ使われる英単語で単に「痩身」とか「美容」などというレベルの会話には少なくとも欧米では使 われない。
日本語で「芸術」と言うと相当に価値のある美術品とか、大変難解なものとかいわゆる日常生活からかけ離れたものであるように受け取られる。
そして「私は芸術家です」などどと言おうものなら「職業として芸術作品を作っている人」ととられるか、変人扱いされる事が良くある。
翻ってアメリカあたりで「I am an artist」とういうと相手は大抵興味津々で「どんな作品を作っているの」などと聞いてきてくれる。Artistというものが彼の地では大変一般的なも のであるし、趣味的でもあるし、尊敬もされている。ましてやイコール職業の人であるということや変人であるという事にも直結しない。
一方、デザインも日本語では、またある種の誤訳を含んでいる。Design=デザイン性、奇抜なもの、あるいは特殊なものという感じがある。
英会話の中で車のミラー(バックミラー)を指して「This is Bad Design」ということがある。これは「このミラーは形が(デザイン性が)悪い」といっているのでなく「このミラーは設計が悪い」という意味だ。しかし ながら「This is good Design」と言ったときには「良い設計」というだけでなく「良いデザイン性」という意味を含んでいる感じがするから不思議だ。そもそも西欧では臆面も なく褒める文化がある。それは時にArtisticやgood Designなどという言い方をすることがある。
褒める場合には情緒的に(褒められて嫌な気分のひとは少ないだろう)けなす場合は論理的に(けなすのが目的ではなく、改善する事が目的なのだ)というのが西欧的であるのかもしれない。
New YorkにMOMA(Museum of Modern Art)というすばらしい美術館がある。ここの収蔵品は美術品だけでなく、オートバイ(英語で言うとMotor cycle )のヘルメットやラジオなどの電化製品までのプロダクトデザインの秀逸なものも収蔵展示されている。
「電気製品は工業デザインだからこの美術館で展示するべきではない」などという野暮な人はここには居ない。芸術的に美しい、あるいは機能美を持ったものな ら大量生産品であろうが、家電であろうがかまわない。美術品であれ工業製品であれ一流のものは人を感動させるのだ。そこには塵ほどの違いもない。
一方、アメリカ中西部のシカゴにThe Art Institute of Chicagoという世界最大級の美術館がある。ハリウッド映画が何度も撮影場所に選んだ有名なところだ。こちらの収蔵品も美術品をはじめ、甲冑や剣、鉄 砲などの武器、民族的な道具や茶器などやフォークアートと呼ばれる分野のものまで一日では到底見きれない量の展示品が並んでいる。ここでも、「甲冑は芸術 品ではなくて武器ではないか」などと展示品に不満を言う人はいない。
誤解を恐れずに言えば、芸術という言葉はArtの誤訳である。日本の西欧絶対主義の思想が本質を見ずに輸入した言葉だ。そしてそれを印籠として使い始め た。ものの価値観を論じる相手の思考を停止させるための印籠として。あるいは画商たちが箔付けを図る便利な道具として。それらの悪癖が現代に残っている。 (そして、それらの「売らんかな」の道具として最近でもエステやダイエットなどの言葉が間違って、意図的に輸入されている)
本来の意味の「芸術」(あるいはアーティスト)の言葉の意味は広く、「デザイン」や「技術職人」「工芸品」なども含まれている。
彫刻家と大工は違う。しかし宮大工を単なる請負職人と言えば非常に失礼な話だろう。同様に非常にすぐれた落書き(キースへリングのような?)もあれば価値 のない油絵もある。頼まれ仕事の挿絵もあれば、自らテーマ設定をして書かれたイラストレーションもある。それらは違いはあっても境界線で区別することなど 出来ないのだ。ものごとはいずれもゆるやかなグラデーションを描いて変化する地続きのものが多い。
芸術とデザインの呼称を自分の観点でもって都合良く区別する事などできないのだ。それはある一定水準の説明を簡単に行うための仕分けでしかない。それは複雑に広がっている現実に眼を背ける行為、思考停止となっている状態なのだ。

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