名古屋市立大学 栗原映像研究室ブログ

相原信洋先生の想い出

相原信洋先生の想い出

「僕ねー、これからアニメ書くから。じゃあ、あとよろしくね」チェコのプラハの滞在先のホテルでのことだ。
相原先生はそういいながら片足を引き摺るようなあの独特の歩き方で部屋へ戻っていく。
欧州への海外研修旅行、それも20人以上もの学生を引率する旅先での事だ。
彼にとってアニメは「食べる事」や「寝る事」と同じような行為なのだ。海外だから、旅先だから、学生と一緒だから、など一切関係ない。ただでさえ荷物の嵩 張る海外旅行でも、いつも重いライトボックスを持ち歩き筆を使って暇さえあれば(あるいは暇を作って)アニメを書き続けているのだ。


僕も相原先生と一緒に、数年前にチェコへの旅に誘っていただいて参加した。10日以上も同伴させていただいた。一緒に旅した学生は相原先生の学校からの参加だけでなく北海道教育大学ほか様々な大学から参加した学生たちで構成されている。

その中の、学生の一人でも旅行中に重大な事故があれば、主催の相原先生の責任になってしまう。場合によっては進退問題になるかもしれない。そんなことを学生たちは露知らず、言いた放題を旅の途中で言う。


「私たちはデパートで買い物がしたいので交流会は参加しません。」二人組の女の子が申し出た。

交流会とはプラハ美術工芸学校の先生や生徒との作品交流会のことだ。
ずいぶんもったいないことを言うもんだなあ、とビールを飲みながら考えていた。ご存知のようにチェコのアニメは世界的に有名で、特に人形アニメでは世界最高水準ではないだろうか。
それらの作品や現役で活躍する先生、将来を担う優秀な学生たちとの交流会を欠席するとはまったくもったいない。現に僕の目の前には好奇心で眼を輝かせてい るチェコの学生たちがいろいろな質問をしてくる。そしていろいろな情報を提供してくれる。あちこちでビールを飲んで盛り上がっている。


そんな折、相原先生に電話がかかってきた。何やら相原先生の語気が荒くなってゆく。どうやら先ほどの二人組の学生が夜にホテルに帰ろうとして道がわからなくなり、泣きながら電話して来たようだ。
やれやれ、本当にこれが大学生だろうか。こんな学生たちを引率するなんて本当に大変だ。しかし、寛大な相原先生はそんな事にも動じない。自分の大学どころか日本の若い世代にアニメーションの素晴らしさを伝導する情熱のまえでは、それくらいのことは大きな問題ではないのだろう。

チェコのツアーそのものは大変盛りだくさんだ。アニメスタジオの見学やチェコアニメのフィルムでの試写(トルンカやバルタの作品など) 国立映画大学や前 述の大学との交流会、古い映画カメラやマジックランタンなどを売っているカメラ店への案内など、映像やアニメに興味のある人間ならツアー料金を倍払っても行って損はないようなツアーだ。
これらのイベント企画はすべて相原先生の個人的な繋がりによるものだ。
今年の秋のツアーの案内もすでに僕の手元にある。参加希望者をひとり相原先生にご紹介していた矢先だった。相原先生が急逝するまえの事だ。


相原先生は周知の通り、一匹狼のタイプで「孤独を愛する人」であったようにお見受けする。それも、そのことが目的で人を寄せ付けないタイプではない。その 点ではむしろ逆で人懐っこい性格だ。ただし、行動するのに必ず付き人を同伴するとか、自分の仕事を他人に相談するタイプではなかったということだ。よくも 悪くも自分の言い出した事や、やり始めた事は全部自分で責任を取る、そういうタイプだ。
だから、アニメ王国チェコプラハツアーは二度と開催されないだろうと思う。引き継ぐべき人材が居ないからだ。

今思えばあのときに、多少の無理をしてチェコツアーに参加しておいて本当に良かった。チェコアニメの神髄を堪能する事ができたし、何よりアニメを作る事、そして、人が何かをやり遂げる事の厳しさと素晴らしさを相原先生から身を以て教えていただけた経験だったからだ。
いまでも、良く思い出す。相原先生のユニークな、あの呼びかけとも、呟きともつかないような言葉を..

「あのね〜、僕はね〜、お金も車もいい家も、何にもいらないの…ただずっとアニメを描いていられればそれでいいの….わかった….?」

Posted in blog, 映画 | Leave a comment

美的NAVI バラエティ「名美女」

東海テレビ 美的NAVI バラエティ「名美女」 2011.5.20放送分
告知映像をアップしました。

YouTube Preview Image
Posted in 映像研究室 | Leave a comment

イメージフォーラムフェス2011

昨日までイメージフォーラムフェスに参加してきました。非常に興味深い作品等にいくつか行き当たりました。
立体の切り紙が動き出す緻密なアニメーション、映像の歴史を講演くださったかわなかのぶひろさん、時計と
時間と植物を魔術的映像で描いたドイツの作品など、見ながらにしてインスパイアされるプログラムでした。

http://imageforumfestival.com/

Posted in link | Leave a comment

夏季撮影企画概要
題名「Angel」(仮題)


現在は夏の撮影にむけての準備をしています。下記に現時点での概要を掲示しておきます。(内容やスケジュールなどは予告無く変更する事があります)出演、お 手伝い、見学など希望の人が居たら遠慮なく連絡ください。学年、学内外、また学生であるかどうか、性別、年齢など全く問いません。

2011.6.16版 夏季撮影企画概要
題名「Angel」(仮題)


撮影実施予定日 2011年8月27日(土)28日(日)および9月17日(土)-25日(日)(19日は敬老の日祝日、23日は秋分の日祝日。平日の撮影実施については検討中)


収録場所 名古屋市立大学(芸術工学部事務室 保健室、山の畑プールほか)マンションほか。


出演予定 (以下具体的な配役は未定、今後オーディション実施予定。以下想定配役など。)名古屋市立大学学生、プロダクション所属の俳優さんほか。


スタッフ (以下予定)栗原康行(脚本演出)ほか名古屋市立大学学生、プロの技術者など。


演出プラン 
あまり大仰に照明を仕込まずに最低限の明るさを確保し、ドキュメンタリータッチで描く。役者もあまり台詞を芝居じみて喋らずにリアルな言葉と態度、アドリブなどで展開する。喜怒哀楽をナチュラルに表現する。

登場人物
 明子(有能なOL)めぐみ(明子の友人。看護士、癒し系 彼氏なし)進藤(新米医師)まさる(冴えない会社員)まつ(フリーター)ほか


物語(あらすじ) 
主人公の明子は自他ともに認める優秀な代理店の営業。昔からの友人めぐみはすこし冴えない看護士。二人が一緒にバスケットボールをしている最中に明子はア キレス腱断裂の重傷を負ってしまう。松葉杖と車椅子の生活を強いられる明子は、そんな状況だからこそ見えてくる社会的弱者の心境を知る事になる。


公開 単館上映予定 (前回はシネマスコーレさんで上映させていただきました(http://www.cinemaskhole.co.jp/)またDVD化を予定

Posted in 映像研究室 | Leave a comment

実習5の上映会と講評、お礼参り

ゴールデンウィークに撮影した短編作品の上映会と打ち上げを行いました。多くの人の参加ありがとうございました。

段ペイ役の斎木さん、斎木さんの舎弟、中川朋香さん、ナビ女の駒田さん、松田せなさん、メイクの貝谷さん、松本伊代さん、大同大学OBの鳥居くん、経済学部の林美紗樹さん、仲根くん、一年生の松本君、Takesの奥田さん、クリックの大隅さん。

みんなみんなありがとうございました。

最後は酔っぱらって先にかえってしまって失礼しました。次回もまたよろしくお願いいたします。

中川朋香さんブログ
http://ameblo.jp/nakagawa-tomoka/entry-10919504128.html

Posted in 実習 | Leave a comment

映像コンテンツ特論受講者へ
レポートについて

執筆の際、以下のようなことに留意してみよう!


1.自分のオリジナルの視点や発見が盛り込まれているか?

2.単なる作品の解説や感想になっていないか?
3.読み物として面白い(あるいは興味深い)ものになっているか?(これが一番大切か)

4.自分の専門分野から見た視点が盛り込められるか?
上記を参考にしてがんばってくださいね。

栗原

東京物語 〜壮大なる実験映画〜
東京物語を語るときに必ず出てくる「構図の美しさや三角形の構図」「人物の配置と出入りの巧さ」「演技の付け方の不自然さ」「カメラポジションの独自性」などについては割愛させていただく。これらは既出の他の研究本に譲る。
私が思うこの映画で特筆すべきは「なんにもない映画」であるということだ。具体的には「ナレーションがない」「テロップ(字幕や説明書き)がない」「カメ ラの動きがない」(ほんの一部移動ショットがある)「音楽効果音がほとんどない」「説明的な台詞がほとんどない」などこれらはテクニカルなこと、さらには 物語を見ると「誰も恋に落ちない」「だれも超人的な活躍をしない」「だれも殴り合いのけんかをしたり武器を使ったりしない」「だれも極度に怒り狂ったり泣 きわめいたりしない」「だれも友情を新たに築いたり、誤解を解いたりして感動的に仲良くなったりしない」歴史的に見てこれだけ何にもない映画が成立してい るケースはほとんどないのではないか。では逆にこの映画を支えているものは何なのか?
それは「人間観察」と「社会的メッセージ」であろう。前者においては家族の絆、親子の情、他人への思いやり、人間の時間的な立場や性格の変化、人間の老い や成長による変化や変遷、それらを通じて「生きるとはどういうことか」ということに対する時代や文化を超えての一つの回答がある。
後者においては戦争の残した傷跡や破壊された家族の形、高度経済成長がもたらした社会全体の歪み=例えば農村部の過疎化による疲弊と都市部の膨張や人口集中による職業の多様化や激しい資本主義競争社会の光と影などであろうか。
この映画の表層に流れる雰囲気は老夫婦の醸し出すのんびりとした空気が支配し、東京で右往左往するコミカルなテイストに溢れている。これらによって映画全 体は望郷の念が満ちあふれたような、のどかな調子に覆われている。しかしながら前述のように、そこで語られているものは実はかなり深刻な問題を提示してい るのだ。この二重構造こそが今日の映画にはほとんど見られなくなった「奥行きのある映画の芳醇な味わい」なのだ。
また、登場人物像と人物描写がよく練られている。そこには特別な人物はいない。どこにでも居そうな人物ばかりが登場し、しかも彼らはどこかで聞いたことが あるような台詞をしゃべる。唯一、原節子演じる紀子だけがややヒロイン的には描かれている。しかし、それでもやはりどこかに居そうな女性であることに間違 いはない。
我々は東京物語を見るときに二時間以上にわたって、この何も特別なことがおこらず、どこかにいるような人物たちのどこかで聞いたような台詞の芝居を見続け ることになるのだ。しかしながら、それこそ実は自分の「実人生」を、さながら二時間に纏めあげた記録のようなものを見せられているのである。だからこの映 画を見るときに、このことが他人事だと思えなくなったときに、あるいは自分が映画の中の自分と近しい立場の人物になったかのような気がするとき、我々は深 くため息をついて思わず頷いてしまうのである。

チャップリンの映画 「街の灯」(City Light)
今から80年も前に 作られたこのサイレント作品(音の無い)を超える映画は未だ現れていない。それはチャップリンのユーモアと慈愛と見事な人間観察の集大成だ。酔っぱらいに ついての見事な観察眼、ボクシングの場面の抜群のアイデア、盲目の花売り娘の清楚な笑顔、どれひとつとっても映画史上最高の場面だ。
また、「街の灯」は映画というメディアを最大限に活かした工夫が散りばめられている。それもサイレント映画ならではの限定的な世界での素晴らしい工夫だ。 例えばチャップリン(自身で浮浪者役を主演している)は自らを貴族(富裕層)と信じさせるために目の前の、当時は非常に高価だった(実は他人の)自家用車 に乗り込むふりをする。盲目の少女の前で逆のドアから降りて、彼女と一緒に過ぎ去ってゆく自動車を見送る。そこではドアの開け閉めの音や自動車が走り去る 音までが映像から各自が感じとる想像の世界の音なのだ。その頃にはもちろんトーキーと呼ばれたサウンドムービーが技術的にも成立していたがチャップリンは あえてサイレント映画を選んだのだ。そこには前述のような限定的な世界だからこそ描ける奇跡がある。
我々は映画を見ながら主役の浮浪者とともに盲目の少女の夢を想像し、少女と一緒に白馬の王子を瞼に描き、劇場の観客が一体となってそこに繰り広げられている世界を、カラーの音のある世界を想うのだ。
それはどんな映像よりも鮮やかな色彩に満ち溢れた世界なのだ。何故なら、どんなに素晴らしいCGや3D映像やドルビーサウンドの映画よりも人間が自らの想 像力で作り上げる色彩は鮮やかだからだ。それはまるでパレット上で絵の具を混ぜるより人間の網膜上で色を混ぜたほうが鮮やかな色彩が得られると提唱した スーラの点描画のようではないか!
「立体メガネをかけましょう」とか地上波デジタルだといいながらそれを見せるべき内容が伴っていないのなら何のための技術革新なのか?
そして、チャップリンの映画において何より大切なことは「笑いながら泣ける映画」であることだ。現在でも多くのコメディが作られている。しかし、多くのコ メディが人を笑わせることを目的としている。翻ってチャップリンにとって笑いは手段でしかない。チャップリンが人を笑わせている間に観客は知らず知らに人 間の「残酷」さや「暖かさ」を味わっているのだ。そしてもっと言えばそこに留まらず社会の矛盾についての強烈なメッセージを含んでいるのだ。ロックミュー ジシャンが大音量で叫ぶよりももっと確実でスマートな方法を用いて、チャップリンはいつも社会的弱者を応援し続けていたのだ。
芸術とデザインの境界線
「芸術」という言葉は比較的新しい言葉で、特例を除けば明治以後に輸入されたもので、Art=芸術という風に訳された「誤訳」だ。
似たような例は多く存在し、diet=痩せるという風に最近日本で誤訳されて一般化した。(dietには食事制限という意味しか本来はない)
また、aesthetics=エステなどと誤訳され(商業的な作戦により意識的に)日本語として間違って一般化した例は多い。Aestheticsは美学 的価値をもつ作品、などというように、かなり高尚な場合にのみ使われる英単語で単に「痩身」とか「美容」などというレベルの会話には少なくとも欧米では使 われない。
日本語で「芸術」と言うと相当に価値のある美術品とか、大変難解なものとかいわゆる日常生活からかけ離れたものであるように受け取られる。
そして「私は芸術家です」などどと言おうものなら「職業として芸術作品を作っている人」ととられるか、変人扱いされる事が良くある。
翻ってアメリカあたりで「I am an artist」とういうと相手は大抵興味津々で「どんな作品を作っているの」などと聞いてきてくれる。Artistというものが彼の地では大変一般的なも のであるし、趣味的でもあるし、尊敬もされている。ましてやイコール職業の人であるということや変人であるという事にも直結しない。
一方、デザインも日本語では、またある種の誤訳を含んでいる。Design=デザイン性、奇抜なもの、あるいは特殊なものという感じがある。
英会話の中で車のミラー(バックミラー)を指して「This is Bad Design」ということがある。これは「このミラーは形が(デザイン性が)悪い」といっているのでなく「このミラーは設計が悪い」という意味だ。しかし ながら「This is good Design」と言ったときには「良い設計」というだけでなく「良いデザイン性」という意味を含んでいる感じがするから不思議だ。そもそも西欧では臆面も なく褒める文化がある。それは時にArtisticやgood Designなどという言い方をすることがある。
褒める場合には情緒的に(褒められて嫌な気分のひとは少ないだろう)けなす場合は論理的に(けなすのが目的ではなく、改善する事が目的なのだ)というのが西欧的であるのかもしれない。
New YorkにMOMA(Museum of Modern Art)というすばらしい美術館がある。ここの収蔵品は美術品だけでなく、オートバイ(英語で言うとMotor cycle )のヘルメットやラジオなどの電化製品までのプロダクトデザインの秀逸なものも収蔵展示されている。
「電気製品は工業デザインだからこの美術館で展示するべきではない」などという野暮な人はここには居ない。芸術的に美しい、あるいは機能美を持ったものな ら大量生産品であろうが、家電であろうがかまわない。美術品であれ工業製品であれ一流のものは人を感動させるのだ。そこには塵ほどの違いもない。
一方、アメリカ中西部のシカゴにThe Art Institute of Chicagoという世界最大級の美術館がある。ハリウッド映画が何度も撮影場所に選んだ有名なところだ。こちらの収蔵品も美術品をはじめ、甲冑や剣、鉄 砲などの武器、民族的な道具や茶器などやフォークアートと呼ばれる分野のものまで一日では到底見きれない量の展示品が並んでいる。ここでも、「甲冑は芸術 品ではなくて武器ではないか」などと展示品に不満を言う人はいない。
誤解を恐れずに言えば、芸術という言葉はArtの誤訳である。日本の西欧絶対主義の思想が本質を見ずに輸入した言葉だ。そしてそれを印籠として使い始め た。ものの価値観を論じる相手の思考を停止させるための印籠として。あるいは画商たちが箔付けを図る便利な道具として。それらの悪癖が現代に残っている。 (そして、それらの「売らんかな」の道具として最近でもエステやダイエットなどの言葉が間違って、意図的に輸入されている)
本来の意味の「芸術」(あるいはアーティスト)の言葉の意味は広く、「デザイン」や「技術職人」「工芸品」なども含まれている。
彫刻家と大工は違う。しかし宮大工を単なる請負職人と言えば非常に失礼な話だろう。同様に非常にすぐれた落書き(キースへリングのような?)もあれば価値 のない油絵もある。頼まれ仕事の挿絵もあれば、自らテーマ設定をして書かれたイラストレーションもある。それらは違いはあっても境界線で区別することなど 出来ないのだ。ものごとはいずれもゆるやかなグラデーションを描いて変化する地続きのものが多い。
芸術とデザインの呼称を自分の観点でもって都合良く区別する事などできないのだ。それはある一定水準の説明を簡単に行うための仕分けでしかない。それは複雑に広がっている現実に眼を背ける行為、思考停止となっている状態なのだ。

Posted in blog | Leave a comment

実習5撮影終了

先週無事に撮影終了しました。
これから編集と音付け作業に入ります。
名古屋美少女図鑑の女の子たちもがんばってくれました。下はその写真です。
あしたのジョーに扮したり、ゴミ箱に入ったり、川に入ったり大変おつかれさまでした。
こちらのメイキング風景は東海テレビで5月20日深夜1時からナビ女TVで放映予定です。

Posted in 実習 | Leave a comment